住吉橋の右岸には、近隣の川から集まってきた多くの船で古くから栄え、その次には北前船で一時代を築いた“花の安宅”の記憶が香ります。
<リスト>
○吉祥庵
○米谷家跡地公園・米谷(半平)家
○沖家
○清水家
○瀬戸家
○加賀藩米蔵跡
○ベカ船頭休み場の周辺
・タンコロ石
・おかんば
・札抜町
・粕場
・冠木門
・弘法堂
〇吉祥庵
この建物をつくった米谷家は北前船でお米などを大阪へ運ぶことで成功し、大金持ちになりました。けれど今から130年ほど前、大阪へ荷物を運ぶ乗り物が舟から貨物列車に変わりはじめ、だんだんお金が稼げなくなると考えた米谷半平と仲間たちは、残っていたお金を使って、現在の北國銀行を作りました。
こんな小さな町の人々が始めたことが、石川全県に広がったって、すごいと思いませんか。
〇米谷家跡地公園・米谷(半平)家
米谷家は江戸時代から渡海船の船主と船荷問屋を営み、加賀藩の大阪御登米(おのぼせまい)を運んでいました。明治時代からは倉庫業や金融業にも進出し、新しい時代の流れに対応して事業を拡大しました。1926年(大正15)年版の「石川県資産家名鑑」では、西の横綱にランクインされました。
米谷半平は北國銀行の初代頭取をつとめ、その後に土地、建物、古文書などを小松市に寄贈されました。建物の一部は小松市吉竹町の「憩いの森」に移築されております。
〇沖(五平)家
お隣の清水家とともに江戸時代から船荷問屋、そして酒造業をしていました。江戸末期には、金沢を代表する北前船主、銭谷五兵衛(金石)から大豆の入った五斗樽を預かったそうです。明治時代になって開けてみると、中からは大豆ではなく大量の小判が出てきて、たちまち大金持ちになったという逸話があります。
〇清水(彦次郎)家
幕末から明治にかけて活躍した船荷問屋であり渡海船主でもありましたが、1898年(明治31)に北陸本線が開通すると、小松駅西口に倉庫を建てていち早く転業し、時代の新しい流れに対応しました。
〇瀬戸(又七)家
渡海船をのべ10隻近く持ち、北海道との商売で財を成した、安宅海運業御三家の一つでした。初代当主又七は安宅町の町長を2回務めています。お屋敷や蔵には、贅を尽くした品物がたくさん残されております。
2代目又七の奥さんは、やはり渡海船で財を成した江沼郡塩屋(現在の加賀市塩屋町)にあった塩田家から嫁いだのですが、その花嫁道具は客車、現在の電車一両ぶんの多さで、小松駅から行列をなして運び込まれ、当時の海運業の繁栄ぶりを象徴していました。
〇加賀藩米蔵跡
安宅会館と安宅こども園が建っている土地には、江戸時代に5つの蔵がありました。能美郡と呼ばれた地域の中で今江、安宅、小松(現在の小松駅付近)で作られた年貢米を集めたことから、稲揚場(えなんば)と呼ばれています。
集められたお米は港から大坂へ向かいましたが、加賀藩の役人(=出船奉行)が金沢からやって来て直接管理し、その9割は役人が大坂から呼び寄せた船で運び出され、地元の船と区別していたそうです。
【データ】 面 積:344坪(=1,137平米) 蔵の内訳:籾蔵3棟、米蔵2棟 |
〇ベカ船頭休み場の周辺
・ベカ船頭休み場(=陸揚げ場)
陸揚げ場だったとされています。安宅は前を流れる梯(かけはし)川と日本海からの荒波がぶつかり、土砂がたまることで川底が浅くなって、大型船が入れません。ですから実際の北前船は沖合に停泊し、艀(はしけ)という小舟を使って荷物のやりとりをしておりました。(※艀=ベカ船=小舟=伝馬船)ここから、それぞれのお屋敷(=船荷問屋=廻船問屋)に向かっていくつかの河道が延びておりました。
・タンコロ石
江戸後期から明治時代にかけて作られた、地元の石(凝灰岩)をくり抜いたもの。1896年(明治29)の大洪水後に、建物がタンコロ石でかさ上げされて、現在の風景となりました。
・おかんば
安宅港での輸入品の口銭を徴収する役所。金沢から出張して加賀藩の大坂御登米を管理監督していた「安宅浦出船奉行」がいました。「おかんば」の名の由来はほかにもあります。
・札抜町
御番所には掲示板があって、出入港の時に札のやり取りをしたとされています。(安宅浦絵図には札木町と記される)「札抜町」の名の由来はほかにもあります。
・粕場(かすば)
向かい側、住吉神社方の陸揚げ場。肥料となるしめ粕が積まれていたことから。
・冠木門(かぶきもん)
安宅住吉神社がかつてこちら側今に伝えております。船乗りたちは船に乗る前、海の安全を祈ってこの門をくぐったといわれています。
・弘法堂
安宅の浦の水戸づかえの舞台です。(市HP)